本日夜、『どうする家康』では、ついに!!、本能寺の変ということで豊臣秀吉について歴史を振り返ってみたいと思います。
■生まれ
織田家の足軽だったとする説が有力。
■名前の変化
「日吉丸」(ひよしまる)
「藤吉郎」(とうきちろう)
「木下藤吉郎」
「羽柴秀吉」
「平秀吉」
「藤原秀吉」
「豊臣秀吉」
■活躍した戦い
①観音寺城の戦い(1568)
信長(徳川・浅井長政・秀吉)vs六角親子(滋賀:観音寺城)
秀吉は、「箕作城」(みつくりじょう)に夜襲を仕掛けて落城させる
②金ヶ崎の戦い(1570)
織田・徳川連合軍vs朝倉義景(浅井長政が信長を裏切り)
金ヶ崎の退き口→撤退の際に秀吉、明智、池田がしんがりを勤め、撤退に成功。
③長篠の戦い
織田・徳川連合軍vs戦国最強・武田軍(勝頼)
「霧山城」を攻め落とす
④中国攻め
信長に命を受け、中国地方平定へ、残すは毛利輝元との戦いのみで平定。
⑤本能寺の変
⑥中国大返し
戦中の毛利輝元と和睦、明智光秀(京都)へ向けて引き返す(中国大返し)
⑦山崎の戦い
秀吉vs明智光秀
明智は3時間の攻防、12日間の天下で終わる
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⑧清洲会議
信長の後継者を決める会議。
山崎の戦いの功績、信長の長男の子の三法師を信長の後継者として押すことで、実質上の信長の後継者の地位を得る。
18歳のときに尾張国を治める織田家に仕えるようになります。そこから、信長と出会い、本能寺の変後の山崎の戦いで勝利を収めたこと、清洲会議で信長の長男の子、三法師の後見人となることで実質的な織田信長の後継者の地位を得る。
その後も賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の活躍もあり、柴田勝家を退ける。
小牧・長久手の戦いでは徳永家康と戦い、数的優位を活かせず互いに人質を渡すことで和議を結ぶ。
その後は紀伊・四国・越中攻略。そうした中、秀吉は朝廷に近づき、関白となり、豊臣の姓を正親町天皇から賜る。
九州平定後、有名な北条氏の小田原征伐を達成、奥羽仕置し奥州平定、天下統一となる。
その後は朝鮮半島(唐)に文禄・慶長の役と2度に渡り攻め入る。
秀吉の最期は、五大老宛てに遺言書を残し、病に倒れ亡くなる。
秀頼が家督を継ぎ、大老や五奉行がこれを補佐する体制となるが、朝鮮出兵の傷により内部より崩れ。
天下分け目の戦い関ヶ原の戦いにつながることとなる。
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